内戦の歴史を理解しよう 地雷博物館

 

 

地雷博物館

 

シェムリアップから北東・バンティアイ・スレイ方面に35km

より多くの人に地雷撤去問題について知ってもらいたいという願いから

アキー・ラー氏によって開設された地雷博物館

内戦でつかわれた武器や不発弾

アキー・ラー氏が処理した地雷の一部(約5000個)などが展示されている

博物館はアキー・ラー氏の自宅と併設

自宅では戦争孤児や地雷被害にあった子供たちをひきとって共同生活をしている

(子どもの権利を守るため撮影は厳禁という立て札がたっている)

その中には博物館で働いている子どももいる

 

アキー・ラー氏は日本人にアキラの名前で親しまれ

日本語が達者なことでも知られている

博物館の展示物や資料に日本語のものも多い

 

 博物館入口 入場料はUS$1

(#゚Д゚)ゴルァ! 仕事しろ!

 

や観光地では見かけることもなくなった

“地雷危険” と書かれたどくろの赤看板

 

戦の負の遺産

20年にわたる内戦はインフラだけでなく “” を破壊した

 

 

2002年以降 地雷を生産している国は15ヶ国

アメリカ・ロシア・中国・インド・北朝鮮・韓国・イラン・イラク・キューバ・ネパール・ベトナム・ミャンマー・シンガポール・パキスタン・エジプト

作っているだろうと容易に想像できる国から意外な国までいろいろ

対人地雷禁止条約 に調印している国は155ヶ国(2006年現在)

ただし世界有数の地雷保有国であるアメリカ・ロシア・中国・インドは調印していないため 効力があるのかないのかよくわからない

調印している国であっても地雷訓練や地雷対策の開発のための保有は認められている

日本は1997年に調印したものの 地雷に多くをたよっていた防衛面の代替が見つからず

条約調印が適切だったかどうか 今でも疑問視される声もある

 

“ここに展示しているすべての地雷はアキー・ラー氏によって芯管が抜かれ爆発の心配はありません

(地雷処理の際の写真も展示されているが、)その処理方法は現在の安全基準には適していません” という注意書きがある

 

人の命は軽かった

飢えに苦しんで豚のえさを盗んで殺された

たった30年前の話とはとても思えない (´Д⊂

ポル・ポト政権によって統治された3年8ヶ月は

今もカンボジア人の心に大きな傷を残している

 

 

 

アキー・ラー氏が生まれたのは1973年 内戦が激化していた頃

父母は5歳の時にポル・ポト軍に殺され

10歳から20歳まで少年兵として戦う 生き方を選ぶことはできなかった

ポル・ポト・ベトナム・カンボジアの3つの軍に徴兵され 無数の地雷を埋めた

平和がおとずれた1993年 地雷の知識を生かし地雷処理をはじめる

今まで処理した地雷は 5万個を越える

 

分解処理に使用していた道具は 超原始的

ハンマー・ペンチ・おの・万力

一歩間違えば爆発する地雷を処理している姿とは

到底考えられない

 

今でも薪集めで被害を受ける子どもが多い

1屬頬笋瓩蕕譴討い訝詫襪 4〜5個

直接的な爆発だけでなく その破片

しこまれている液状の毒ガスが牙をむく

内戦が終わって15年 まだまだ問題解決への道のりは長い

内戦当時の様子を描いたもの

昨日の味方が今日の敵

同じ顔 同じ肌 同じ民族で殺しあう

寺院のすぐそばが戦場になり その横で農民たちが畑を耕す

危険だとわかっていても 明日の命のために米を作りつづける

“安全に住める祖国をとりもどしたい”

アキー・ラー氏の思いが1日も早くかなうことを願ってやまない

こんな張り紙がありました

転職先が決まっていなかったら

間違いなく応募していたでしょう (´・ωヾ)

 

 

内戦の歴史

 

 カンボジア人の対日感情は非常によい

援助という面はもちろんあるが それ以上に歴史の果たす役目は大きい

日本 = フランスをおっぱらった解放軍であり

傲慢な態度をすることない(お辞儀など)民族性でカンボジア人に接してきた

どちらも仏教と自然信仰が融合して国を形成してきたという共通点もあるだろう

根底にある民族性は似ているような感じをうける

 

一方、カンボジア(クメール)人がベトナム人に抱く感情はものすごく悪い

非常に攻撃的で 親ベトナム的な意見を口にするものなら身の危険を感じるほど

なぜそんな感情をもつのか? 内戦の歴史をたどると答えが見えてくる

 

年代

統治者

イベント

- 1953年

フランス(植民地)

 フランス統治下にあったが経済・教育などの発展には力をいれず

 文化国としての発展はほとんどせず

1953年

  - 1970年

シヌアーク王

 フランスから独立  隣国ベトナム戦争(1960-1975)

 戦火をさけるため東西どちらにも属さない “中立外交” を実施

 独裁政治(表向きは王制・仏教社会主義)

 中国にならった経済政策が失敗 財政困窮

1970年

ロン・ノル(右派)

 シヌアーク北京へ亡命

 ロン・ノルに復讐するためクメール・ルージュ(赤/ポル・ポト派))と手を組み

 “カンプチア民族統一戦線” を結成 (共同戦線とも呼ばれる)

 ベトナム軍 カンボジア侵入

1973年

 カンボジア内戦(右派 vs 共産主義)が激化

1975年

ポル・ポト政権

(民主カンプチア政府)

 カンプチア民族統一戦線 プノンペン入城  内戦終結

 共産主義政策 の断行

 市場/通貨/学校教育/宗教活動の廃止 人民公社の設置 都市の無人化

 農村への強制移住&集団生活化 思想教育 民族性の破壊

1977年

 ベトナムとの国境紛争激化  ベトナム軍カンボジア国内侵攻

1979年

ヘン・サムリン政権

 ポル・ポト政権 プノンペンを放棄  タイ国境に逃走

 ベトナム軍に支援され “カンプチア人民共和国” 樹立宣言(社会主義)

1982年

ヘン・サムリン政権 vs

民主カンプチア連合政府三派

 反ベトナム!

 <中国・ASEAN支援> 民主カンプチア+シヌアーク+ソン・サン派による

 “民主カンプチア連合政府三派” 発足(社会主義+民主経済)

1982年

 - 1991年

 <ソ連・ベトナム支援> カンプチア人民共和国 と2つの国家が併存

 カンプチア人民共和国 vs 民主カンプチア連合政府三派 内戦激化

 ソ連・東欧社会主義諸国の崩壊(1989年) 冷戦の終結

1991年

国連による暫定政権

 パリ和平協定 内戦の終結

1993年

シヌアーク王

 “カンボジア王国” 樹立

 

ベトナム戦争のとばっちりが20年にわたる混乱の火種

他の要因もあるものの ベトナムに東西の冷戦を持ち込みさえしなければ

ここまでややこしいことにならなかったのだ (´;ω;`)

 

 

飛行機に乗る前にマッサージでしっかり疲労回復☆

 

     

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